さて、私と現地ガイドのユーリ・モイセーエフ、コックを努める女子大生クライマーのグリャの3名がテントを建てたのは、すぐ脇を冷たい清流の流れる広々としたお花畑のど真ん中である。標高は約3,000m。右、左、前方をコの字にぐるりと峻険な峰々に囲まれたクライマーの別天地のようなところであり、日本の山で例えるなら、やはり涸沢ということになるだろうか。登ってきた道の方角だけは広い谷が開け、眼下にアルマティの町が霞んで見えている。
好天の空の下、旧ソ連内でも有名な登山家の一人である46歳のユーリの先導で、標高4,000mちょうどのアマンギルディ峰を登りに出かける。
踏み跡のつけられた尾根道を辿り、1時間と少し登った氷河湖の脇で休憩する。8月下旬は花の時期には少し遅いが、それでもまだ、エーデルワイスや黄色いケシの花など、多くの高山植物が目を楽しませてくれる。また砂礫地の岩のそこここに貼りついた鮮やかな緑の苔が、とても美しく印象的である。
そこからは1時間あまりの長大なガレ登り。池の谷ガリーなどよりもはるかに石の安定が悪く、ひじょうに神経を使わされる。ようやく稜線上のコルに出た。剱の八ツ峰の稜線をスケールアップし、かつより荒々しくしたような感じである。ここで昼食。グリャが用意してくれたランチパックには、ハムサンド、トマト、干しアンズなどが入っていた。とてもおいしい。
このコルからいよいよ本格的な登攀で、数ピッチの岩登りでアマンギルディの頂上に出られるのだという。ザックから登攀具を取り出し身につける。ガイドのユーリが取り出した装備はと言えば、ハーネス、ヘルメット、ザイルの他は、
カラビナとハーケンとナッツが少々あるだけ。スリングは1本もなく、古びたクイックドローを2本持っているだけである。ロープとヘルメットは新しく私たちがふだん使っているものと同じだが、ハーネスは年季の入ったトロールのウイランス・シットハーネスで、すべて環付きのごついカラビナや、ロシア製のナッツ、ハーケン類は、ハーネスよりもさらに使い古されたものに見うけられた。
1本の9@ザイルを環付きカラビナでハーネスにつけただけの彼が、いきなりビレイなしで登り始めた。そんなに易しそうには見えないし、落ちたら谷底まで行ってしまうようなところなのである。ビレイはいいのかと聞くが、ビレイ点もないしいいのだと言う。しかし、出だしからつまっており、血の気が引いてくる。行きつ戻りつしてから、やっとナッツでランニングを取ったので、アンカーはないが、とりあえずエイト環チョンがけのボディ・ビレイの態勢をとる。万一落ちたら、思いっきり流して制動確保で止めるしかないな、と思う。
しばらくしてユーリのOKがかかり、フォローを開始し、思った以上に悪いので驚いた。出だしが5級くらいあるのだが、どうしてここをビレイなしで行こうとできるのか、理解できない。もちろん山靴で、クライミングシューズなんて履いてはいないのである。その上もそこそこ難しく、それをひどいプア・プロテクションで登っている。30〜40mのピッチで途中の残置ハーケンは2本ほど、あとはナッツで1箇所ランニングをとってあるだけだった。私は昔から“悪い”登りというのは嫌いではないのだが、このピッチは正直、セカンドでも怖かった。ユーリのところに登りつくと、アンカーは小さな岩の突起に結ばれた色落ちした古いスリングだけ。
2ピッチ目は1ピッチ目ほど難しくないが、とにかく岩がもろい。取りつきまで登る間、目に入る周囲の岩壁はどれももろそうなものばかりなので、しっかりした固い岩が本当に出てくるのかと半信半疑だったのだが、結局は見た通りだったのである。1ピッチ目はまだしもしっかりとしていたが、2ピッチ目はぼろぼろである。日本人以上に悪い岩を登る人たちがいることを、私は初めて知ったのだった。
そんな岩をユーリがあいかわらずプア・プロで登っていく。その姿を目で追いながら、私は気がついた。これぞまさしく昔の人たちがやっていたという、「トップは絶対に落ちてはいけない」というクライミングではないか!
3ピッチ目は易しいリッジ状を登り、さらに氈`級の岩稜を2ピッチ、コンテで辿ると、すばらしい展望のアマンギルディ山頂に到着した。ロープを結んでからの所用時間は約1時間。日本にはない4,000mの高さでのクライミングは、なんだかんだ言っても、やっぱりすばらしいものである。
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グリャの作る美味しい食事
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ところで、旧ソ連地域で使われている岩登りのルートグレードは、易しい方から順に沂堰`、級と6つのカテゴリーに分類されており、さらにその1つのカテゴリーが。aと。bというように2段階に分けられる。ちなみに、ザイリスキー・アラトー山脈の岩場ルート図集というのもソ連時代に出版されている。今日私たちが登ったルートは、日本のグレード感覚だとピッチグレードで4級〜5級くらいだから、ソ連のグレードでも「級のカテゴリーかな、と思っていたのだが、頂上でユーリに尋ねると、「b。易しいルート」とあっさり言われてしまった。となると、、級のカテゴリーとはどれくらいの難しさ、いや悪さなのだろう。
無事にベースキャンプに戻ってユーリと握手。まだ陽は高い。まずビールで乾杯。グリャが手早く用意してくれた2種類のおいしいサラダをつまみながら、ビールを2本飲み、さらにウオッカを飲む。お花畑の中の私たちだけのキャンプ・サイト。幸せな午後だった。