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Epicurean ―鈴木英貴スライド&トークショーを観て―

松原 尚之(日本山岳会青年部) 

 風に戸惑う弱気な僕
 通りすがるあの日の幻影

 そのスライドショーは、サザンのTUNAMIのBGMとともに開始された。
 そして音楽をバックに、40枚ほどの美しいスライドが、言葉による説明なしに、早いテンポで、ぱっ、ぱっと、映されていく。
行ってきたばかりだというハワイのスライド。美しい海辺の風景が映される。ビーチボルダリングの他に、最近はまっているというカイトサーフィンやパラグライダーに興じているスライドがある。続いて、近年のホットスポットでもあるビショップ周辺のエリアでのボルダリング……。
 TUNAMIが終わると、音楽はアメリカのポップスに変わった。周到な準備と、その軽快でおしゃれなスライドの観せ方にまず感心する。
 40枚ほどのスライドが終わると音楽も終わり、いったん照明がつき、明るい色のアロハ風シャツを着た鈴木英貴の話がはじまった。そこからは説明をしながらスライドを見せていく、というふつうのスライドショーのスタイルになった。
 1979年に初めてヨセミテを訪れて以来、アメリカに生活の拠点をおきながら、20年の長きに渡ってフリークライミング中心の生活を続けてきた鈴木英貴。去る6月6日、久しぶりに来日した彼の、モンベル社主催のスライド&トークショーを観に行った。
 たぶん私が大学1年生の時だから1984年のことだと思うが、当時一緒にフリークライミングをやっていた友人が、「スズキヒデタカがファイブサーティーンを登った」と教えてくれた。何かの山岳雑誌に出ていたのをその友人が見つけたのだが、それは鈴木英貴が日本人として初めて5・13に成功したという記事であった。そう、私が大学に入ってフリークライミングを始めた頃、日本人はまだ誰一人、5・13を登っていなかったのである。5・13という未知の扉を初めて開いた日本人。それが鈴木英貴であった。
 
1980年代以降、ずっとアメリカでクライミングを行っている鈴木だが、近年は、夏はヨーロッパ(主にフランス)、冬はオーストラリアでクライミングを行っており、長ければ半年を外国で過ごすという。今はカリフォルニア州のビショップに住んでいて、ボルダリングに傾倒している。また最近はカイトサーフィンやパラグライダーをはじめ、ついこのあいだもハワイに行ってきたばかりだそうだ。
中学時代はモトクロスレースに夢中だったが、15歳の時に事故を起こし、モトクロスレースを辞めることにした。
新しい興味の対象を探していたところ、横須賀の自宅から近い鷹取山でクライミングをしている人々を見かけ、それがクライミングをはじめるきっかけになった。モトクロスの他に10歳の年から6年間体操をやっていたという鈴木だから、クライミングの上達は早かった。モトクロスレースなどと違い、コンペティションでないことに魅力を感じたという。
1970年代のことだから、そのままロッククライミングだけをやるというのではなく、当然山の世界にも傾倒していくことになり、大学時代は山とバイトに明け暮れる生活となった。
ボニントンのように世界中を旅しながら、本を書いたりして生きられればいいな……。
当時はそんなことを考えていた。
 早稲田大学2年生の時にドロップアウト(退学)してヨーロッパに渡った。シャモニに1年ほど住みアルプスを登っていたが、ある時、外国人のクライマーからヨセミテの写真を見せられたことが、のちにアメリカへ渡るきっかけになった。
 初めてヨセミテに行ったのは1979年春のことである。ちなみにこの1979年という年は、アメリカのトニー・ヤニロがグランド・イリュージョン(5・13b/c)を初登しフリークライミングの限界を押し上げた歴史的な年でもある。1984年、鈴木はこの記念碑的なルートの第4登を成し遂げ、さらに1987年には、初のレッドポイント・スタイルでの登攀に成功することになる。
 1979年にはエルキャピタンのノーズやサラテなどビッグウォールを登ったりしたが、ヨセミテでフリークライミングの洗礼を浴びた鈴木は、以降山から離れ、フリークライミング一辺倒の生活を送るようになった。
 しばらくは日本で窓拭きその他のアルバイトをして金をためながら、毎年春秋2回づつヨセミテに行く生活を続けたが、80年代半ばに、妻・美智子をともなってアメリカに渡り、フルタイム・クライマーとして生活するようになった。そうしてひたすら「クラックに指をねじ込む生活」を続けたおかげで、アメリカを代表するクラック・クライマーの一人になることができた。
 鈴木はアメリカでテストピースと呼ばれる最難ルートをかたっぱしから再登したのち、自分でもいくつかの初登攀を行った。そして1988年、当時の自己のベストクライムと言えるジョシュアツリーのスティングレイ(5・13d)に成功した。クラックではおそらく世界最難と言えるこのルートは、現在に至るまでいまだ再登を許していない。

 1989年に転機が訪れた。長年連れ添ったパートナーである妻の美智子が病気で亡くなったのである。
 折りしもこの頃、世界のフリークライミングの流れはクラックからフェースへ、すなわちスポーツクライミングの時代へと変化をとげようとしていた。最良のパートナーを失った鈴木も、パートナーを見つけやすいスポーツクライミングのエリアへと、自然と足が向くようになっていった。

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